東京 豊島区 区名の由来

東京 豊島区

北豊島郡に属する4つの町が合併して東京市に編入される時に、郡名からこの名前が採用された。ただし、豊島区の前身である4町は北豊島郡の一部に過ぎず、元々の北豊島郡は現在の北区から練馬区にかけての広い範囲を含んでいた。本来の郡の中心地は板橋町であったが、東京市に隣接する4町が郡内で最も発展した地域であったため、4町の区域が「豊島区」と名付けられた。

さらに元を辿ると、北豊島郡はかつての武蔵国豊島郡の一部であり、「豊島」が指す範囲はより一層広かった。古代豊島郡の郡衙は現在の北区に置かれ、中世には現在の北区を発祥とし、石神井川流域を本拠地とする桓武平氏の豊島氏が豊島郡を治めた。豊島という町名が豊島区ではなく北区にあったり、同じくとしまえん(豊島氏の城の一つ練馬城の跡地)が練馬区にあったりするのはそのためである。なお、豊島氏は1477年に江古田・沼袋原の戦いで太田道灌に敗れて滅亡した。

東京市による最初の区名原案は「池袋区」(いけぶくろく)だった。その後区名案が「目白区」(めじろく)に変更され、その後各所から寄せられた様々な陳情を受け、東京府会に於いて「豊島区」と再変更され決定された。

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